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2016年、世界の小説はドコにいるのか

MONKEY Vol.8 2016年の文学


暇に任せてトマス・ピンチョン重力の虹』にチャレンジしてみたのだけれどちょっと手に負えなくて、次はどんな本を読もうかなあ、今面白い小説ってどんなんかなぁ、柴田元幸に聞いてみようと思って『Monkey』のバックナンバーを買った。


特集は題して『2016年の文学』。今年3月に行われていた東京国際文芸フェスティバル2016に併せて、小説家たちの座談会が掲載されている。「世界全体からすれば部分集合に過ぎないが」と念を押した上で、世界から集まったその部分的なモノが紹介されている。


世界の文学を概観すると、二つの大きな特徴が見えてくる。一つは"物語の表層的な繋がり"。もう一つが"物語の深層的な繋がり"。


"表層的な繋がり"とは、ポップカルチャーやインターネットの普及によって、作家たちが同じような素材を参照し始めたこと。世界中の小説を書く人達が、同じように、映画や音楽、漫画に触れることで、これらの文化が共通言語になった。


タイの小説家、プラープダー・ユンは小説を書いたり、海外小説を翻訳したり、装丁をデザインしたり、あげく出版社まで経営している超マルチな小説家だ。『Monkey』に掲載されている『新ヴィンセント』という小説には、Facebookも出てくるし、Twitterも出てくるし、ドン・マクリーンも出てくる。日本語に訳されているのを読むと、これ、本当にタイ人が書いた小説?と疑ってしまう。ユンは大の日本好きで、『座右の日本』というエッセイも書いている。


芥川賞作家の柴崎友香もアメリカ文化の影響は大きいという。彼女は大阪に生まれ、『冒険野郎マクガイバー』、『ナイトライダー』、『特攻野郎Aチーム』といったアメリカのドラマを観て育った。ヴェルヴット・アンダーグラウンドを聞き、タランティーノの映画を愛している。彼女が最初に書いた短編小説の元になったのはスマッシュ・パンプキンズのミュージックビデオだ。


アメリカの小説家、スティーヴ・エリクソンはロサンゼルスの街が"人工的"だという。ロサンゼルスの人工的な時空間が世界中に広がり、世界がロサンゼルス化されつつある。人工的とは、時間や空間が"フランケンシュタイン的"につぎはぎされているということ。その人工性を支えているのは、ロサンゼルスからほど近いシリコンバレーで生まれたFacebookTwitterといったWebサービスだ。


時間や空間が人工的に繋がると、行ったことのない場所、話したことが無い人達に対する想像力がより豊かに、より具体的になる。東京に住みながら、バクーの港で働く人の物語を書くこともできる。Googleストリートビューでバクーの街に降り立てば、そこにある店の名前や、道路の幅まで分かる。そのほか、Wikipediaを覗けば、たいていのことを探し出せる。


その昔、小説家たちの共通言語は西洋の小説だったり、哲学だったり、絵画だった。トルコを含めた中東では、西洋の小説が民衆を啓蒙してきた。西洋的啓蒙の影響下にあるトルコの作家たちは、個人と社会の関係のあり方を訴える手段として小説を選び、多くのプロレタリア小説を生み出した。


でも、ポップカルチャーやインターネットでつながるというのは、西洋的啓蒙よりもっとゆるくて、柔らかい。思想的なメッセージはインターネット空間を瞬時に駆け巡り、相対化される。革命を促すような有難い言葉も、他のポップカルチャーマッシュアップされて、メッセージが持つ神聖な何かを失う。


相対化の波に揉まれて擦り切れになった文化が表層的に人をつなげる。世界中の小説家が、共通言語を操り、物語の舞台、仕掛け、道具を作り出す。


とはいえ、小説(でも漫画でも映画でも同じだが)がその表層的な何かだけを描いたとしたらとてもつまらないものになる。世界の小説家たちは、共通言語を理解した上で、物語のもっと深いところに潜る。それが"物語の深層的な繋がり"を生む。


アメリカのパフォーマンスアーティスト、ミランダ・ジュライは映画脚本を書くのに行き詰っていた。筆の乗らないジュライは、インターネットを泳ぐのをやめて、フリーペーパーに売買広告を出す人達、つまりインターネットに縁の無い人達に会いに行くことにした。革ジャンやオタマジャクシ、手製のアート作品を売る人達と出会い、話したことを『あなたを選んでくれるもの』という本にまとめた。この冒険を経て、ジュライは脚本を書けるようになった。物語をつくる何かを見つけたのだ。


小説から少し離れるが、スペインのカルロス・ベルムト監督による映画『マジカル・ガール』は明らかに日本のポップ・カルチャーの影響下にある。主人公の女の子は魔法少女に憧れているのだ。でも、『マジカル・ガール』はスペインの監督による実写版『魔法少女まどか☆マギカ」』ではない。描かれるのは父親と娘の屈折した愛である。ベルムトにとってポップカルチャーは素材でしかない。彼が表現したいものはもっと深いところにある。


"物語の深層的な繋がり"というキーワードから、高橋源一郎は『大人にはわからない日本文学史』の批評を思い出す。高橋は綿矢りさ樋口一葉を比べるという、かなりアクロバティックな比較を行っている。100年以上前の小説家と現代の小説家が…同じ?


高橋は綿矢りさの『インストール』は読者に五感を使うように要請する小説だという。主人公は色々なことを感じる。何かを聞いて、何かに触れて、冷たかったり、うるさかったり、痛かったりを感じる。描かれているのは、言葉にされたメッセージではなく、人が何を感じているのか。『インストール』の主人公は、冷たかったり、うるさかったり、痛かったりという思いをした結果、死にたいと思う。


樋口も綿矢と同じところを目指している。樋口の代表作の一つ『にごりえ』の主人公は、『インストール』以上にストレートに思いを吐露する。

あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか


物音のしない静かな場所で、つまらない、くだらない、面白くない、情けないとくだをまく。感情をぶちまける。100年以上前の小説なのに、ちっとも古い感じがしない。まるで、自虐的なWeb日記みたいだ。


表層的なものは色あせていく。作家たちの共通言語は時代と共に移り変わる。でも、変わらないものもある。つまらない、くだらない、面白くないという人の感じ方は、トルコでもアメリカでも明治時代の日本でも同じ。小説家たちが、深く潜って探し出すのは、そんなずっと変わらない何かだ。


ポップカルチャーやインターネットは小説家たちを"表層的に"繋げた。でも、彼・彼女たちが書くべきことは、もっと深いところにある。そして、深く潜った結果生まれる"深層的な繋がり"は、時代や国を超えて、読者に強烈なメッセージを発する。ドストエフスキーが100年以上前に『カラマーゾフの兄弟』で書いた"神と信仰の問題"は、現代に生きる読者の切実な問題である。(資本主義と共産主義という)思想ではなく、宗教の違いが人の断絶を生む現代においては。


2016年、世界の小説はドコにいるのか。


人工的につぎはぎされ、ポップカルチャーでまみれた場所で、小説家たちが、とてつもなく人間臭く、大昔から変わらない普遍的な何かを求めて、作品を生み出している。物語のもとになる"何か"は、樋口一葉がつまらない、くだらない、面白くないとくだをまく話を書いていた時代と、そんなに変わらないのである。