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ウラジミール・ソローキン『氷』: "肉機械"である我々はどうすれば幸せになれるのだろう

氷: 氷三部作2 (氷三部作 2)


氷三部作の第二作(執筆順では一番目)。最近ソローキン世界に肩までどっぷり浸かって、もう、抜けらんないの。(氷三部作の第一作『ブロの道』の書評はこちら)


1941年のロシア、コリュバキノ村に住む金髪碧眼の少女ワルワーラ・サムシコフは、独ソ戦の勃発によりやってきたドイツ兵により連行される。ワルワーラはドイツで強制労働させられるはずであったが、彼女と同じ金髪碧眼の集団"兄弟団"によって見出され、"フロム"の名前を与えられる。スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ等、ソ連指導者の統治の裏で、フロムたち兄弟団は、自分と同じ"心臓(こころ)"をもった兄弟(と姉妹)を見つけるために暗躍する。


氷三部作は執筆順(『氷』→『ブロの道』)に読むか、物語順(『ブロの道』→『氷』)に読むか迷うところだが、執筆順に読むほうがいい気がする。そのほうが『氷』第一部のサスペンス感が楽しめる。


ソローキンの多彩な文体操作術は、『青い脂』に差し込まれるロシア文学者クローンの作品群で重々分かっていたつもりだったが、今回はやられた。少女時代のフロムがめっちゃ可愛い。ソローキンと訳の松下隆志との偉業といってもいい。


フロムの名前を与えられた直後、兄弟達が彼女をおめかしするシーンがこんな感じだ。

それから、二人の女性は私に服を着せにかかった。ローブを脱がせ、戸棚や箪笥から色々な衣服やワンピース、色とりどりのペチコート、ズロース、ブラジャーを取り出した。そしてずらりと並べた。どれもすごく美して、清潔で、真っ白!


まずはブラジャーのサイズを合わせた。私のおっぱいはまだ小さかった。彼女たちは一番小さなブラジャーを選んでつけてくれた。すごい!私の村では大人の女のひとがブラジャーをすることさえ前代未聞だったのに、小さい娘がブラジャーをするなんて!こんなブラジャーを見かけたのはジズドラやフリュピノの農村消費組合だけで、そこにはワンピースや織物なんかもあった。


それから、白いズロースを穿かされた。人形が穿いているみたいな、短くてかわいらしいズロース。その後、ズロースにストッキングを留めてもらった。そしてすぐその上から短くて白いペチコート。素敵!全部レースで、甘い香りがする!どれもきれいで、言葉を失う。その上からワンピースを着せられた。青くて、白い襟が付いている。お次は靴選び。開けた箱の中身を見せられるたびに、もう驚きの連続!編み上げ靴でも、ブーツでもなく、本物の短靴で、ワニスできらきら光っている!選べるように三つの箱が用意されていた。私は頭がくらくらした。指さして、靴を足に履かせてもらう。ヒールのついた靴だ!


少女の一人称を、スターリンとフルシチョフの糞尿垂れ流すセックスを書いていたおっさんが書いているかと思うと、胸が熱くなる。ズロースとペチコートをはく描写とかいる?変態なの?


国家保安省の将校であるアドルとハーという"兄弟"の庇護の元、フロムは残虐な女戦士(?)へと成長していく。兄弟の中でひときわ強い心臓(こころ)を持ったフロムは、兄弟団の創始者ブロと同じある特別な能力を持つ。能力の発露と同じくして、彼女には兄弟以外の人間が"肉機械"に見えるようになる。


フロムには"肉機械ども"の営みが滑稽に見える。"肉機械ども"はこの世に死者になるべく生まれ落ちる。この世に"時間"がある限り、"肉機械ども"は産まれ、老い、死んでいく。ただそれだけが繰り返される。フリードリッヒ・ニーチェ永劫回帰と呼んだ人間の宿命は、フロムにとっては忌まわしき生物の不調和に過ぎない。


なぜ人間は死ぬのか。死を恐れて苦しむのか。そして、苦しみを繰り返すのか。


金髪碧眼の兄弟たちは人間とは違う。兄弟たちはこの宇宙を、地球を、生物を、人間を創造した原初の光であった。原初の光は時間という概念も死という概念も持ち合わせていなかった。ただ存在していた。"肉機械ども"のように時間に追われ、身を削るように生の営みを繰り返す必要はなかった。


原初の光たる兄弟たちには心臓(こころ)があり、心臓(こころ)を通わせれば相手のことを全て理解できる。心臓(こころ)で語り、心臓(こころ)で通じ合うと、時間という概念がなくなる。そして、心臓(こころ)を通わせるという行為は、想像を絶するほど"心地よく"また"幸福"であるという。


現代に生きる"肉機械"たる我々は、兄弟たちの心臓(こころ)の発露をとても羨ましく思う。同時に、我々が如何に心臓(こころ)忘れ、表層的なものによって支配されているかを思い知らされる。"心地よい"だとか"幸福だ"と思う感覚は頭で感じられるものではない。脳内で言語化できるものではない。それは心臓(こころ)でしか感じることはできない。


想像してほしい。


たまの有給で、ちょっと高い温泉宿を訪れる。広々とした和室に案内される。荷物を隅の方に置いて、大きな窓を開ける。海の上に燃えるような夕日が浮かんでいる。思いっきり背伸びをする。冷たい海風が、鼻から、口から、スーッと身体中に澄み渡る。今日残っていることは、温泉に入って、美味しいご飯を食べるだけ。その瞬間、頭ではなく、心臓(こころ)で感じるはずだ、幸福だと。


皮肉だが、小説などという言語にまみれたものを読んでいる読者は浅はかな"肉機械"の極みである。そして、金髪碧眼のフロム様に罵倒されてしかるべき存在である。


"肉機械ども"は言語にまみれ、権力に翻弄され、他人を蹴落とし、殺し合い、自らが作り出した機械で支配し、支配され、生の不調和を生きてきた。人間の歴史とは心臓(こころ)を忘れた者たちの不幸の歴史である。


『氷』の最後、兄弟団が開発した心臓(こころ)が目覚めた状態を疑似体験できる健康増進システム"アイス"のモニター体験談が紹介される。その中で三十三歳の詩人はこのように心臓(こころ)が目覚めた状態を描写する。

これはあらゆる意味において神々しい!これは私たちを死に、異世界への移行に備えさせてくれる。私は長らくこんな恍惚を感じたことはなかった、長らくこれほど我を忘れたことはなかった、このみすぼらしい灰色の現実から完全に切り離されたことはなかった。私たちの地上の生-これは死に対する、変容に対する、偉大なる旅路に対する備えなのだ。いと高き力が棺の中にいる私たちを目覚めさせ、よみがえらせてくれるまで、私たちは人形のように、自分たちの地上の覆いの中で微睡むことを余儀なくされている。<死を愛せぬ者は生をも愛せぬ>と老子は言った。この奇跡の装置は私たちに死の愛し方を教えてくれる。


"肉機械"である我々はどうすれば、この詩人や兄弟たちのように"心地よく"、"幸せ"になれるのだろうか。


ソローキンは言うだろう。「心臓(こころ)で語れ」と。