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安部公房『R62号の発明・鉛の卵』: ナンセンス世界には死者が漂う

R62号の発明・鉛の卵 (新潮文庫)


この前、EXPOCITYで『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』を観た帰り、そういえばタマフル宇多丸師匠が万博記念公園に行った話をしていたな~と思い、行ってみた。入場料は250円。ゲートをくぐるとすぐに、太陽の塔がそびえたっている。生まれも育ちも大阪の吹田市で、小さい頃から太陽の塔を眺めて育った。なので、この異形の巨大建築物を観るとホッとする。


万博記念公園の中に「EXPO'70パビリオン」という万博に関する資料や写真、映像が展示された記念館がある。建物は万博開催時に「鋼鉄館」というパビリオンとして使われたものだ。記念館の中には、「スペースシアター」という光りと音を使ったパフォーマンスを鑑賞できるスペースがあり、万博当時のプログラムが上映されている。スペースシアターの展示を眺めている時に、ふと、プロデュースに関与している丹下健三小松左京武満徹といった著名人のリストの中に安部公房の名前を見つけた。そうか、安倍公房は、文学人だけど、こういうSF的(と言っちゃうとざっくりし過ぎだが)な催しをプロデュースするような立場の人だったんだなと妙に感心してしまった。


万博記念公園に行った帰り、心斎橋のスタンダードブックストアの棚を眺めている時に、またふと、平積みされている本に安部公房の名前を見つけた。『R62号の発明・鉛の卵』である。これに期間限定の帯がついていて、何やらピース又吉のお気に入り本ということだ。『砂の女』でも『壁』じゃなくて、この短編集。うーん、又吉は何が気に入ったんだろうなぁと思い、家に帰って棚から引っ張り出して、読み直してみた。


という長い前置きだったが、『R62号の発明・鉛の卵』である。


表題の『R62号の発明』、『鉛の卵』の他に10作の短編が入っている。『人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち』みたいないかにもアヴァンギャルドなものや、『死んだ娘が歌った』のような女性一人称の物悲しいものもある。文体は作品ごとにコロコロと変わる。そして、時間と空間が同時にねじれたような奇怪なイメージが浮かぶ文章で溢れている。

S区のはずれに白くにごった運河があった。コンクリートの堤防は、肘をついて時をすごす高さだ。下駄やキャベツの皮や猫の頭が流れていく上を、イカダをひいたモーター・ボートが通りすぎると、急に日がくれた。

  • R62号の発明


収録されている短編を書いていたのは安部公房がアラサーくらいの時だ。当時はバリバリの共産党員で、労働組合の集会に顔を出したり、松川事件を扱った『不良少年』というシナリオを書いたりもしている。エッセイにも、マルクス・レーニンをひいて、労働者の革命を鼓舞するようなものが多い。


安部公房(だけじゃなくて当時の多くの文学者)にとって、文章を書くということは社会主義革命を実現するための実践だった。日鋼室蘭争議真っ只中に室蘭を訪れていた安部公房の熱に浮かされたような文章からも見て取れる。

彼らは文学を求めていた。それは団結の思想や階級的自覚の要請と、まったく同じ場所から同時にうまれ育った要求だった。文学だけではない。あらゆる人間的欲求が、その階級的自覚の中から、まるで早春の大地にめばえた緑のようにほとばしり沸き立ってきたのだ。

  • 闘いの中の文学


『R62号の発明・鉛の卵』の短編が書かれていたのは、安部公房がかように暑苦しく左翼思想に傾倒していた時期なのである。『R62号の発明』は、言ってしまえば、工場の機械化によって労働から"疎外"された(失業してしまった)一人の男が、"ブルジョワ"階級の実験として労働ロボットに改造される話であり、『変形の記憶』は第二次大戦の無能な軍上層部が部下を虫けらのようにあつかい、"国体"のためと称して無謀な作戦を実行する話である。こんな感じの"それっぽい"ジャーゴンがたくさん出てくる。


これだけ聞くと「ああ、承知いたしましたわ。プロレタリア文学的な、暗くて、小難しい感じのお話しなのですね。わたくし、ご遠慮いたしますわ。パタン」と本を閉じてしまいたくなる気持ちはわかるが、ちょっと待って。


イデオロギーをしょっぴいて、ナンセンスなSF小説としても読んでも、この短編集は十分面白い。医学博士でもある安部公房が緻密に描く『R62号の発明』の手術シーンや、デパートの屋上から転落したら一本の棒になってしまったという『棒』の主人公の極限までに無力存在の心情など、ぶっ飛んだ発想力とそれを補完する異様なまでのディティールは、読んでいて本当に楽しい。


これらの作品群に表立った共通テーマは無いのだが、底の方で通奏低音のように流れているのは、安倍公房の死生観である。『変形の記録』、『死んだ娘が歌った』では主人公たちが早々に死んでしまう。そして、死んだあとに幽霊になり、現実世界をさまよい、そこで生きている人間たちを観察する。生きている人間からは死んでいる人間は見えないが、死んでいる人間はずっとそこにいて、生きている人間を見ている。


この死生観は"精神主義"や"経験主義"や"通俗的リアリズム"に対するアンチテーゼであり、肉眼で見えるものだけではなく、例えば死者であったり、極小の物質であったり、人の心の中であったり、目に見えないものも含めて現実であり、作品におけるある種ナンセンスな設定はその複雑な現実を描くための安部公房の方法論である。この方法論で切り取った彼の小説世界は奇怪で美しい。


そんな安部公房的な色眼鏡をかけて、この前行った万博記念公園を思い出す。かつてパビリオンで埋め尽くされていた場所は、半世紀後には空虚な広場になっている。でもそこには、万博に携わった当時の人達が、死者になって、浮遊している気がする。


ああ、ということは、太陽の塔はそんな死者たちのための兵馬俑なのかもしれないなぁ。