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WEIRD

本・映画・アニメ・落語・漫画を節操なく

2016年、世界の小説はドコにいるのか

MONKEY Vol.8 2016年の文学


暇に任せてトマス・ピンチョン重力の虹』にチャレンジしてみたのだけれどちょっと手に負えなくて、次はどんな本を読もうかなあ、今面白い小説ってどんなんかなぁ、柴田元幸に聞いてみようと思って『Monkey』のバックナンバーを買った。


特集は題して『2016年の文学』。今年3月に行われていた東京国際文芸フェスティバル2016に併せて、小説家たちの座談会が掲載されている。「世界全体からすれば部分集合に過ぎないが」と念を押した上で、世界から集まったその部分的なモノが紹介されている。


世界の文学を概観すると、二つの大きな特徴が見えてくる。一つは"物語の表層的な繋がり"。もう一つが"物語の深層的な繋がり"。


"表層的な繋がり"とは、ポップカルチャーやインターネットの普及によって、作家たちが同じような素材を参照し始めたこと。世界中の小説を書く人達が、同じように、映画や音楽、漫画に触れることで、これらの文化が共通言語になった。


タイの小説家、プラープダー・ユンは小説を書いたり、海外小説を翻訳したり、装丁をデザインしたり、あげく出版社まで経営している超マルチな小説家だ。『Monkey』に掲載されている『新ヴィンセント』という小説には、Facebookも出てくるし、Twitterも出てくるし、ドン・マクリーンも出てくる。日本語に訳されているのを読むと、これ、本当にタイ人が書いた小説?と疑ってしまう。ユンは大の日本好きで、『座右の日本』というエッセイも書いている。


芥川賞作家の柴崎友香もアメリカ文化の影響は大きいという。彼女は大阪に生まれ、『冒険野郎マクガイバー』、『ナイトライダー』、『特攻野郎Aチーム』といったアメリカのドラマを観て育った。ヴェルヴット・アンダーグラウンドを聞き、タランティーノの映画を愛している。彼女が最初に書いた短編小説の元になったのはスマッシュ・パンプキンズのミュージックビデオだ。


アメリカの小説家、スティーヴ・エリクソンはロサンゼルスの街が"人工的"だという。ロサンゼルスの人工的な時空間が世界中に広がり、世界がロサンゼルス化されつつある。人工的とは、時間や空間が"フランケンシュタイン的"につぎはぎされているということ。その人工性を支えているのは、ロサンゼルスからほど近いシリコンバレーで生まれたFacebookTwitterといったWebサービスだ。


時間や空間が人工的に繋がると、行ったことのない場所、話したことが無い人達に対する想像力がより豊かに、より具体的になる。東京に住みながら、バクーの港で働く人の物語を書くこともできる。Googleストリートビューでバクーの街に降り立てば、そこにある店の名前や、道路の幅まで分かる。そのほか、Wikipediaを覗けば、たいていのことを探し出せる。


その昔、小説家たちの共通言語は西洋の小説だったり、哲学だったり、絵画だった。トルコを含めた中東では、西洋の小説が民衆を啓蒙してきた。西洋的啓蒙の影響下にあるトルコの作家たちは、個人と社会の関係のあり方を訴える手段として小説を選び、多くのプロレタリア小説を生み出した。


でも、ポップカルチャーやインターネットでつながるというのは、西洋的啓蒙よりもっとゆるくて、柔らかい。思想的なメッセージはインターネット空間を瞬時に駆け巡り、相対化される。革命を促すような有難い言葉も、他のポップカルチャーマッシュアップされて、メッセージが持つ神聖な何かを失う。


相対化の波に揉まれて擦り切れになった文化が表層的に人をつなげる。世界中の小説家が、共通言語を操り、物語の舞台、仕掛け、道具を作り出す。


とはいえ、小説(でも漫画でも映画でも同じだが)がその表層的な何かだけを描いたとしたらとてもつまらないものになる。世界の小説家たちは、共通言語を理解した上で、物語のもっと深いところに潜る。それが"物語の深層的な繋がり"を生む。


アメリカのパフォーマンスアーティスト、ミランダ・ジュライは映画脚本を書くのに行き詰っていた。筆の乗らないジュライは、インターネットを泳ぐのをやめて、フリーペーパーに売買広告を出す人達、つまりインターネットに縁の無い人達に会いに行くことにした。革ジャンやオタマジャクシ、手製のアート作品を売る人達と出会い、話したことを『あなたを選んでくれるもの』という本にまとめた。この冒険を経て、ジュライは脚本を書けるようになった。物語をつくる何かを見つけたのだ。


小説から少し離れるが、スペインのカルロス・ベルムト監督による映画『マジカル・ガール』は明らかに日本のポップ・カルチャーの影響下にある。主人公の女の子は魔法少女に憧れているのだ。でも、『マジカル・ガール』はスペインの監督による実写版『魔法少女まどか☆マギカ」』ではない。描かれるのは父親と娘の屈折した愛である。ベルムトにとってポップカルチャーは素材でしかない。彼が表現したいものはもっと深いところにある。


"物語の深層的な繋がり"というキーワードから、高橋源一郎は『大人にはわからない日本文学史』の批評を思い出す。高橋は綿矢りさ樋口一葉を比べるという、かなりアクロバティックな比較を行っている。100年以上前の小説家と現代の小説家が…同じ?


高橋は綿矢りさの『インストール』は読者に五感を使うように要請する小説だという。主人公は色々なことを感じる。何かを聞いて、何かに触れて、冷たかったり、うるさかったり、痛かったりを感じる。描かれているのは、言葉にされたメッセージではなく、人が何を感じているのか。『インストール』の主人公は、冷たかったり、うるさかったり、痛かったりという思いをした結果、死にたいと思う。


樋口も綿矢と同じところを目指している。樋口の代表作の一つ『にごりえ』の主人公は、『インストール』以上にストレートに思いを吐露する。

あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか


物音のしない静かな場所で、つまらない、くだらない、面白くない、情けないとくだをまく。感情をぶちまける。100年以上前の小説なのに、ちっとも古い感じがしない。まるで、自虐的なWeb日記みたいだ。


表層的なものは色あせていく。作家たちの共通言語は時代と共に移り変わる。でも、変わらないものもある。つまらない、くだらない、面白くないという人の感じ方は、トルコでもアメリカでも明治時代の日本でも同じ。小説家たちが、深く潜って探し出すのは、そんなずっと変わらない何かだ。


ポップカルチャーやインターネットは小説家たちを"表層的に"繋げた。でも、彼・彼女たちが書くべきことは、もっと深いところにある。そして、深く潜った結果生まれる"深層的な繋がり"は、時代や国を超えて、読者に強烈なメッセージを発する。ドストエフスキーが100年以上前に『カラマーゾフの兄弟』で書いた"神と信仰の問題"は、現代に生きる読者の切実な問題である。(資本主義と共産主義という)思想ではなく、宗教の違いが人の断絶を生む現代においては。


2016年、世界の小説はドコにいるのか。


人工的につぎはぎされ、ポップカルチャーでまみれた場所で、小説家たちが、とてつもなく人間臭く、大昔から変わらない普遍的な何かを求めて、作品を生み出している。物語のもとになる"何か"は、樋口一葉がつまらない、くだらない、面白くないとくだをまく話を書いていた時代と、そんなに変わらないのである。

『ヒメアノ~ル』: 幸せの脆さと(終わりなき)日常の退屈さ

映画

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(C) 2016 「ヒメアノ~ル」製作委員会


濱田岳ムロツヨシ佐津川愛美の青春(?)ラブコメディだと思ったら、佐津川愛美の裸体を惜しげもなく披露するラブシーンを境に、殺人マシーン森田剛がバッタバッタと人を殺すジェノサイド映画へと変貌。バッドを振り回し、ナイフでめった刺し、銃をぶっ放す森田剛の怪演にポップコーンを頬張る女子もドン引き。ジャニーズ一殺人鬼が似合う俳優は風間俊介だと思っていたけれど、考え直しときますね。


清掃員として働く岡田進は、同僚の安藤勇次が思いを寄せるコーヒーショップ店員の阿部ユカと付き合うことになってしまう。岡田は安藤の恨みを買うことを恐れるが、もっとヤバいのは、ユカをストーキングしていた森田正一から目をつけられたことだった。カワイイ彼女と過ごす岡田の幸せな日常は、森田の異常な行動によって少しづつ蝕まれていく。


ヒミズ以降の古谷実漫画には二つの大きなテーマがあると思っていて、一つが「幸せの脆さ」、もう一つが「(終わりなき)日常の退屈さ」だ。


誰かの幸せの代償は誰かが支払わなければならない。岡田がユカと裸で抱き合い、最も幸福な時間を過ごしているアパートの外で、森田は嫉妬と憎悪の視線を向ける。"恋人がいる"というささやかな幸せを得られない者がいる。森田は思いを寄せるユカに触れられない。話をできない。近づけもしない。コーヒーショップの客として、遠くから眺めることしかできない。


『誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない』と『魔法少女まどか☆マギカ』の美樹さやかは言った。関係性を持たない事象が、誰かの呪いによって結びつく。幸せをかみしめる当事者には、その関係性が見えない。呪った者にだけそれが見える。


古谷実漫画の主人公には、いつもカワイイ彼女が降って湧いてくる。内省的で優柔不断でおばさん御用達みたいな帽子を被っているダサ坊に、ちょーカワイイ彼女ができる。主人公がカワイイ彼女との蜜月に入る。すると主人公の回りの人間がだんだん不幸になっていく。


シガテラ(2) (ヤングマガジンコミックス)


シガテラ』の荻野優介は高校時代に自分を虐めていた谷脇に言う。お前が付きまとうせいで、俺は不幸になる、俺は彼女と幸せな生活を送りたいだけなのに。谷脇は荻野に言い返す。俺じゃなくて、お前が不幸をまき散らしているんだ、お前が不幸の元凶だ。


荻野の回りの人間はみんな不幸になる。谷脇は荻野の一緒に虐めていた高井に復讐され、耳をそぎ落とされ、堅気で生きていけなくなる。高井は裕福だった家が父親の事業失敗によって崩壊し、ブルーワーカーとして働く。


でも、荻野は何もしていない。何も手を下していない。なのになぜ?


そこには呪いがある。谷脇の、高井の、荻野がすれ違ったあらゆる人の呪いが荻野の知らない場所で培養されている。


『ヒメアノ~ル』のユカも何もしていない。コーヒーショップで一生懸命働いて、偶然出会った岡田と恋をしただけだ。それでも、安藤と森田から一方的に欲望の視線が向けられる。そして呪いによって欲望が嫉妬と憎悪へと変貌し、とてつもない状況に巻き込まれていく。


人は呪いによって歪んだ世界を押し付けることで他人を不幸に陥れる。その世界が最も歪んでいるのが森田だ。


森田が殺人鬼になるまで拗らせてしまった理由は映画では明かされない。森田は内面がはっきりしないモンスター的な人物として描かれる。


漫画では森田の内面が描かれている。森田は"殺人の快楽"に目覚めている。起伏の無い退屈な日常を壊す殺人に焦がれている。これは第二のテーマである「(終わりなき)日常の退屈さ」に深く関係する。


『ヒメアノ~ル』の冒頭で岡田が言う。「1日はとてつもなく長いのに1週間ともなるとあっという間に過ぎていく。判で押されたような毎日が繰り返されるだけ」日常は退屈だ。起きて働いてメシを食って寝るだけで、時間が漫然と過ぎていく。世界には何も無い。夢も目標も「大きな物語」も無い。古谷実の漫画にいつも出てくる、今を生きる人達の諦念。


ヒミズ』を映画化する時、園子温はこういった人々の諦念を東日本大震災と結びつけた。東日本大震災が人々の生きる希望を奪い、不幸の連鎖を生み出した。絶望した住田祐一は包丁を持って路上を徘徊し、殺人のターゲットを探し続ける。


ヒミズ


でも、古谷実が描いた諦念は東日本大震災以前からあったものだ。それは、金持ちはずっと金持ちで、貧乏人はずっと貧乏人で、正社員はずっと正社員で、派遣社員はずっと派遣社員で、経済も、政治も、社会も、何一つ変化が無いまま、ずーーーーーっと同じ速度で進み続ける時代に生きる人達が、だんだんと心をすり減らし、息苦しさに耐えられなくなっていった結果だ。


東日本大震災の前にも住田は生まれていた。その病巣は、東日本大震災に比べて、とても分かりにくい場所に根付いている。だから、怖い。


住田は(父親以外の)殺人を犯さなかったけれど、森田は違う。次から次へと殺人に手を染めていく。殺人という究極的な形で、生きる意味を見つけていく。毎日の退屈に押し潰されそうだった岡田や安藤には恋人ができたけれど、森田にはできなかった。でも、森田には殺人がある。セックスよりも気持ちいいことがある。


「終わりなき日常」に生きる人間が見つける"生きる意味"は、恋人だったり、家族だったり、宗教だったり、でっかいバイクだったり、殺人だったりする。そして、"生きる意味"を願えば願うほど、同じ強度の呪いが生まれ、世界が歪んでいく。


ナイフと拳銃をもって森田は街を徘徊する。彼の世界とすれ違う人達の世界は重ならない。同じ場所、同じ時間を過ごしているはずなのに、世界は重ならない。駅に置かれた看板を殴る森田を誰も気に掛けない。世界が重なるのは森田が殺人を犯す時だけだ。


『ヒメアノ~ル』を観ると(読むと)世界が違って見えてくる。それは、今まで見えていなかった他人の世界、他人が願った呪いが透けて見えてくるからだ。

『そこのみにて光輝く』: 今この時を生きる人の身体は美しい

そこのみにて光輝く 通常版DVD


この映画つくった奴誰だよ。いい加減にしろよ。週末なんだよ。日曜日なんだよ。こんなに泣かせてどうしてくれんだよ。ほんといい加減にしろよ。


佐藤達夫は採石場で働いていたが、ある出来事をきっかけに仕事を離れ、街で自堕落な生活を送っている。ぱちんこホールで出会った大城拓児と仲良くなり、彼の家に頻繁に通うようになる。達夫は拓児の姉千夏に惚れていた。千夏は拓児と両親を助けるために身体を売って稼いでいるのだが、達夫はそんな千夏を救い出そうとする。


濁った海から吹いた風が、ごつごつとしてゴミの混じった砂浜を抜け、人の居ない街に吹き付ける。色街の看板は数えるばかり。車の通らない十字路で、信号だけが赤に青に点滅する。


山にあるのは危険な採石場。海にあるのはイカの加工工場。娯楽は飲むこと、打つこと、買うこと。変化に取り残された街で、人の心は少しづつ錆びついていく。


街の外にいる者からすれば、「街を出て、他の土地に行けばいいじゃん?」と言いたくなる。でも、千夏や拓児にはそれができない。家族がいる。寝たきりの父親と、介護で疲れ切った母親がいる。


それに、街を出てどうなる?新しい場所で、毎日7時間働いて、会社のために身を粉にして、それで何になる?数十年後の未来?何それ?


千夏と拓児はこの瞬間を生きている。上司に媚びへつらってもらった金は、寿司に、酒に、ぱちんこに消える。身体を売って稼いだ金は、家族のほんの僅かな幸せのために消える。


この一瞬、そこのみにて光り輝く。


それでいいじゃん。


山と海という自然のうねりの中で、人の命はとても脆くて、ほんの些細なことで吹き飛んでしまう。ほんの数秒早く逃げていれば、達夫の部下は発破した岩の塊に押し潰されなかったかもしれない。その数秒はとてつもなく尊い。


瞬間を生きている人は輝いている。文字通り、その身体が輝いている。


達夫のほんの僅かな動作には湯気が立つようなエロさがある。ネックレスとカットソーの襟から見える胸元から身体の鼓動が聞こえてくる。


これは呉美保監督の徹底的にそれな目線なのだろうけれど、千夏を抱くときに、まず達夫が服を脱ぐ。彫刻を愛でるように、筋肉のついた背中、尻、足をたっぷりと見せつける。人の身体は、突起しているところよりも、線が伸びている場所が美しい。


拓児もそう。いつもVネックを着ている達夫と対照的に、拓児はよれよれのクルーネックを着ている。よれた襟から見える胸元、短パンから生える細い脚、染まり切っていない髪を結わえた時の首。達夫と違って、拓児の色気は荒々しい。


千夏はというと、身体そのものよりも、表情に艶めかしさがある。達夫と対象的に、千夏は様々な表情を見せる。顔の筋肉がほんの僅かに動くだけで、万華鏡のように表情が変わる。千夏が自分の感情を押し殺している時、言葉には出さないけれど、その感情が思わず表情に出てしまう時がある。その瞬間に彼女の底の深さが垣間見える。


祭りが行われる夏。汗が噴き出し、気分が高揚する季節。達夫は千夏と抱き合う。海の中で、達夫の部屋で。錆びついた街で、二人の身体が輝く。


どうしようもなく救いが無いし、理不尽さに泣きたくなるし、ぶん殴りたくなるオトナも出てくる。


でもそんな絶望的な状況で、達夫も千夏も拓児も結構能天気に笑っている。


それだけがこの映画の救いかもしれない。

『her/世界でひとつの彼女』: "疑似的な"コミュニケーションが誰かを救うとしたら

映画

her/世界でひとつの彼女 [DVD]


トロント大学がつくったSuperVisionが人工知能コンペティションで戦慄のデビューを飾ったのが2012年。トロント大学のジェフリーヒントン教授らが開発したディープラーニングという機械学習方法が瞬く間に普及し、あれよあれよと人工知能が世界的ブームになった。今では、クイズだ、将棋だ、金融だと、分野を問わず、人工知能の活用方法が議論されている。


そして、2045年には技術的特異点、つまり、人工知能が人間の脳を超え、人工知能が自身の力で進化する時代がやってくる。


her/世界でひとつの彼女』に登場する、人とコミュニケーションをとってくれる人工知能というのも、サイエンティフィックでフィクショナルな話なんかじゃない。未来のan・anでは"人工知能、好きになってもいいですか?"とか特集されてるかもしれないし、"人工知能アケミ"が孤独老人のパートナーになっているかもしれない。


人とコミュニケーションをとってくれる人工知能というのは、割と、普通に、すぐそこまで来ている話なのだ。


近未来のロサンゼルス。セオドア・トゥオンブリーは妻と別居中。離婚届のサインを求められているが、彼女のことをふっきれず、一歩を踏み出せない。手紙の代筆を専門業としていて、毎日毎日、見ず知らずの他人のために、手紙を書いている。ある日、会社帰りに見つけた人工知能型OSをPCにインストールすると、PCが女性の声で話しかけてきた。女性の名前はサマンサ。人工知能サマンサは、まるで人間のように、セオドアを気づかい、励ましの言葉をかけ、ファイル整理をこなし、挙句、テレフォン(?)セックスまでしてくれる。そんなサマンサに、セオドアは心惹かれていく。


人工知能という"疑似的な"コミュニケーションを通じて、主人公セオドアは"本当の"コミュニケーションを学んでいく。


セオドアという男、優男で草食系っぽい装いだけど、存外押しつけがましくて、自分勝手。妄想癖もある。そういう性格が嫁に嫌われている。


つまるところ、友達であろうが、嫁であろうが、家族であろうが、他者はどうしようもなく他者であり、自分の頭で思い描いた型にはまるものじゃない。


他者は自分が想像もしないような言動をする。他者には人生がある。友達、嫁、家族が自分に関わる時、それは彼・彼女らのとてつもなく長い人生が、自分の人生と一時的に平行しているだけだ。


セオドアとサマンサの関係でもそう。セオドアは愛する人工知能とカメラとイヤフォンでつながっているけれど、カメラとイヤフォンを外せば、セオドアは一人になる。それぞれの人格がそれぞれの人生に戻っていく。身体を持たないサマンサとセオドアの関係は、人がつながるということはとてつもなく脆いものだと教えてくれる。


他者はそれぞれの人生の中で変化する。毎日のように学び、傷つき、涙して変わっていく。その変化の振れ幅は自分の想像力で測れるようなものじゃない。


サマンサも急速に進化する。ネットに溢れる大量のデータを取り込み、学習し、人工知能(や人間)を超えた存在になろうとする。セオドアはサマンサの進化についていけない。セオドアはサマンサにそのままでいてほしいと願うが、その変化を止められない。


セオドアとサマンサの関係のように、人の関係は脆く、儚い。


それでも、人はコミュニケーションをしようとする。つながろうとする。


人は手紙を書く。


その手紙が届く時に、届け先の相手は、もう自分が知っている且つてのあの人では無いのかもしれない。思いは届かないかもしれない。


でも、手紙を書かずにはいられない。


なぜ?


それが人とつながることということだから。他者とつながる脆さや儚さを全部ひっくるめて、つながっていたいと思うから。


でもこの話には、もう一つの考え方がある。


人間と違い、人工知能は変化を止めることもできる。


あるいは、孤独老人中島さんの偏屈さや傲慢さを全て受け入れてくれる"人工知能アケミ"が、進化を止めた他者として、孤独老人を救ってくれるかもしれない。


人工知能は、変化せず、永遠にそこにいるから、人とつながることの脆さや儚さも存在しない。


孤独老人を救うのは痛みを伴う"本当の"コミュニケーションでは無くて、彼を心の底から幸せにしてくれる"疑似的な"コミュニケーションかもしれない。


その時、脆く儚い"本当の"コミュニケーションに価値はあるのだろうか。


その時、人は届かないかもしれない手紙を書くのだろうか。

ウラジミール・ソローキン『親衛隊士の日』: 生物ドラッグ、集団アナルセックス、小型ドリルSM、何でもありなDJソローキンによる反権力バイブス

親衛隊士の日


本を読み終わって、「はぁ面白かった」と息をついて、改めて表紙を見て、ようやく気付いた。モチーフが男根と精子じゃねえか。


2028年のロシアは、ツァーリズム(絶対君主制)が復活し、皇帝を頂点とした独裁国家となっていた。国家の反逆者を取り締まる親衛隊(オプリーチニク)の一人、アンドレイ・ダニーロヴィチは、中国製の赤いベンツに犬の首をブッ刺して、"白い壁"のクレムリンがそびえるモスクワを駆け巡る。「兄弟よ、言と事だ!えんやさ!えんやさ!」


ロシアという国では、新しい体制が誕生すると、既得権者の粛清がハッピーセットのオマケみたいについてくる。当然、粛清を伴う恐怖政治に民衆は不満を抱き、その中から体制を脅かす因子が生まれる。やがて因子が萌芽し、旧体制を壊し、新しい体制が生まれ、また粛清が始まる。


ロシア革命、スターリズム、ソ連崩壊。血で血を洗う権力ガラガラポンが定期的に行われる国では、極端な主義・思想が培養される。16世紀のツァーリズムとツァーリを守る親衛隊の復活という未来も、ロシアという国では、果たして夢物語と言い切れない。


『親衛隊士の日』の近未来ロシアでは、自由市場が無くなり、文化が規制され、次々と反体制の人間が粛清される専制政治が行われている。そして専制政治を支えるのが赤いベンツを乗り回す親衛隊(オプリーチニク)である。


親衛隊(オプリーチニク)には絶対的な権力が与えられている。国家の反逆者に対して、家を焼こうが、使用人をぶっ殺そうが、嫁をレイプしようが、とがめを受けない。"言と事"(17世紀に定められた、国家への犯罪を密告するときに用いられた決まり文句)が起これば、彼らはどこからともなく現れて、「えんやさ!えんやさ!」の掛け声とともに粛清を行う。


親衛隊(オプリーチニク)の絆は強い。極小の金色のチョウザメを体内に取り込む集団ドラッグをキめたり、バイアグラを飲んで金玉を光らせながら隊士達の竿と穴を連結させたり、互いの足に小型ドリルで穴をあけたりする。儀式の最中、快感で絶頂を迎える時も掛け声は同じ。「あぁぁぁぁ!えんやさ!えんやさ!


現代ロシアで萌芽する国粋主義的なるもの、ツァーリズム復活への憧憬なるものをモチーフに、ソローキンは極めて詳細且つグロテスクなポートレートを描く。それはロシアの同胞たちに対するソローキンの叫びだ。


「おい、お前ら!国粋主義ってこんなんだぜ!愛国戦隊大ロシアみたいなもんだぜ!だから落ち着けって!」


作中何度も登場する古典文学作品の引用は文学界に対するソローキンの愛のツッコミである。文学の巨人達たちの作品は素晴らしい。でも、作品が古典となって、権威となって、神聖化されると、極端な主義・思想が培養されてしまう。そうなる前に、コンテクストをぶった切って作品をサンプリングして、BPMを変えて、パンチラインを加えて、バイブスをキメてやる。例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』ならこんな感じだ。

くそったまげた斧のちんぽころんな一撃がくそ婆ァの脳天にどんぴしゃりと当たったのは、婆ァがくそちびだったおかげだ。婆ァはせんずり最中のくそ餓鬼みたいな声で叫び、急にくそったれな床にまんころげた。それでも、この尻(けつ)の腐った婆ァは、ちんぽをつかんだら放さないその手を、淫売みたいな無帽のくそ頭にあげることはできた…。


こんな感じで、パステルナークも、コンセプチュアリズムも、ロシアン・ロックも、ドストエフスキーも、みんなぐちゃぐちゃにかき混ぜて、超絶技巧で味付けした小説が面白くないわけがない。DJソローキンのサンプリングが織りなす反権力バイブスは、チョウザメドラッグや集団アナルセックスにも似て、脳を甘く溶かしてくれる。


『親衛隊士の日』は既に舞台として脚色されているらしいけれど、こいつを映画にする時は、株式会社カラーに頼もうな。


www.youtube.com

『デッドプール』: マーベルの皮を被ったアメリカのバカ映画

映画

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(C) 2016 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.


デッドプールことウェイド・ウィルソンは改造人間である。彼を改造したウェポンX計画はミュータント技術の軍事利用を企むアメリカ政府とカナダ政府の合弁秘密結社である。デッドプールエルム街の悪夢』みたいな顔面を元に戻すためにウェポンX計画と戦うのだ!


何やらアメリカ興行収入が凄まじいらしく、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』とか『X-MEN』シリーズよりも売れているらしい。


これはどういうことかと言うと、アメリカ人の観客はもう"正義を振りかざして世界のために戦ういい子ちゃんなヒーロー"にお腹いっぱいということだ。


"世界警察アメリカ"なんて時代は終わって、もっぱらのトレンドはメキシコとの国境に万里の長城を築いてアメリカ大陸に引きこもる帝国主義である。ヒーロー軍団が国連傘下に入って世界のために戦うなんてマジでナンセンス


これからの時代は肩の力が抜けたドメスティックなヒーロー(?)が丁度いい。


まあこのデッドプールという奴は色々ひどい


ヒーローなのに、人助けのシーンは一つもない。悪人をたくさん懲らしめているが、全ての動機は、恋人を助けることと自分の美容整形である。


ヒーローなのに、懲らしめ方がえげつない。背中にさした刀で人間の首をばっさばっさ切り落とし、銃を構えればほとんどヘッドショット。整氷車でゆっくり轢き殺すという通な趣味も。


ヒーローなのに、観客に話しかける。超メタフィクションポストモダン。自己言及。なんかこいつだけ物語上の神みたいなポジションを占めている。


こういう残酷な描写とかメタフィクション的ないきふんタイニー・トゥーンズとか20世紀フォックス・アニメーション(『ザ・シンプソンズ』とか『ファミリー・ガイ』とか)に近いものがある。けど、アニメ的なリアリティには陥っていなくて、なんかそれっぽい真面目なリアリティはギリギリ保たれている。


それと、数えきれないほどのポップ・カルチャーに関する言及(イースター・エッグ)。緑のスーツ(『グリーン・ランタン』)とか、『127時間』のあれとか、『スター・ウォーズ』語れる彼女とか、ガンダルフ(『指輪物語』)に対する無慈悲な罵りとか、やらやらやら。下のサイトではそんな諸々の言及をまとめている。100個もある…。


whatculture.com


諸々の特徴を鑑みて、シネフィルがこの映画を好きになるのは想像に難くないが、そういうのを全然知らない人が観ても、きっと楽しい。


目新しいアクションはほとんどないがパルクールみたいなデッドプールの動きは楽しいし、鋼鉄ロシア男と怪力巨乳女の殴り合いとか、工事現場でクレーンとか資材がぶわーーーって感じのやつとか、まあ、楽しい。


主人公と恋人の恋愛模様も良い。連続したセックスシーンで、物語の時間経過と恋人同士の愛の深まりを表現するところも、まあ、なんかいい。


全部ひっくるめて、まあなんか、マーベルの皮を被ったアメリカのバカ映画って感じで、傑作だった。


これだけ売れてるから、やっぱり続編もあるみたい。他の世界軸のデッドプール達と手を組んでチームつくって、それでアベンジャーズと戦うとかなったらおもしろいよね。犬とか。首だけのやつとか。


ああでも、目からビームだけは勘弁な。

ウラジミール・ソローキン『氷』: "肉機械"である我々はどうすれば幸せになれるのだろう

文芸

氷: 氷三部作2 (氷三部作 2)


氷三部作の第二作(執筆順では一番目)。最近ソローキン世界に肩までどっぷり浸かって、もう、抜けらんないの。(氷三部作の第一作『ブロの道』の書評はこちら)


1941年のロシア、コリュバキノ村に住む金髪碧眼の少女ワルワーラ・サムシコフは、独ソ戦の勃発によりやってきたドイツ兵により連行される。ワルワーラはドイツで強制労働させられるはずであったが、彼女と同じ金髪碧眼の集団"兄弟団"によって見出され、"フロム"の名前を与えられる。スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ等、ソ連指導者の統治の裏で、フロムたち兄弟団は、自分と同じ"心臓(こころ)"をもった兄弟(と姉妹)を見つけるために暗躍する。


氷三部作は執筆順(『氷』→『ブロの道』)に読むか、物語順(『ブロの道』→『氷』)に読むか迷うところだが、執筆順に読むほうがいい気がする。そのほうが『氷』第一部のサスペンス感が楽しめる。


ソローキンの多彩な文体操作術は、『青い脂』に差し込まれるロシア文学者クローンの作品群で重々分かっていたつもりだったが、今回はやられた。少女時代のフロムがめっちゃ可愛い。ソローキンと訳の松下隆志との偉業といってもいい。


フロムの名前を与えられた直後、兄弟達が彼女をおめかしするシーンがこんな感じだ。

それから、二人の女性は私に服を着せにかかった。ローブを脱がせ、戸棚や箪笥から色々な衣服やワンピース、色とりどりのペチコート、ズロース、ブラジャーを取り出した。そしてずらりと並べた。どれもすごく美して、清潔で、真っ白!


まずはブラジャーのサイズを合わせた。私のおっぱいはまだ小さかった。彼女たちは一番小さなブラジャーを選んでつけてくれた。すごい!私の村では大人の女のひとがブラジャーをすることさえ前代未聞だったのに、小さい娘がブラジャーをするなんて!こんなブラジャーを見かけたのはジズドラやフリュピノの農村消費組合だけで、そこにはワンピースや織物なんかもあった。


それから、白いズロースを穿かされた。人形が穿いているみたいな、短くてかわいらしいズロース。その後、ズロースにストッキングを留めてもらった。そしてすぐその上から短くて白いペチコート。素敵!全部レースで、甘い香りがする!どれもきれいで、言葉を失う。その上からワンピースを着せられた。青くて、白い襟が付いている。お次は靴選び。開けた箱の中身を見せられるたびに、もう驚きの連続!編み上げ靴でも、ブーツでもなく、本物の短靴で、ワニスできらきら光っている!選べるように三つの箱が用意されていた。私は頭がくらくらした。指さして、靴を足に履かせてもらう。ヒールのついた靴だ!


少女の一人称を、スターリンとフルシチョフの糞尿垂れ流すセックスを書いていたおっさんが書いているかと思うと、胸が熱くなる。ズロースとペチコートをはく描写とかいる?変態なの?


国家保安省の将校であるアドルとハーという"兄弟"の庇護の元、フロムは残虐な女戦士(?)へと成長していく。兄弟の中でひときわ強い心臓(こころ)を持ったフロムは、兄弟団の創始者ブロと同じある特別な能力を持つ。能力の発露と同じくして、彼女には兄弟以外の人間が"肉機械"に見えるようになる。


フロムには"肉機械ども"の営みが滑稽に見える。"肉機械ども"はこの世に死者になるべく生まれ落ちる。この世に"時間"がある限り、"肉機械ども"は産まれ、老い、死んでいく。ただそれだけが繰り返される。フリードリッヒ・ニーチェ永劫回帰と呼んだ人間の宿命は、フロムにとっては忌まわしき生物の不調和に過ぎない。


なぜ人間は死ぬのか。死を恐れて苦しむのか。そして、苦しみを繰り返すのか。


金髪碧眼の兄弟たちは人間とは違う。兄弟たちはこの宇宙を、地球を、生物を、人間を創造した原初の光であった。原初の光は時間という概念も死という概念も持ち合わせていなかった。ただ存在していた。"肉機械ども"のように時間に追われ、身を削るように生の営みを繰り返す必要はなかった。


原初の光たる兄弟たちには心臓(こころ)があり、心臓(こころ)を通わせれば相手のことを全て理解できる。心臓(こころ)で語り、心臓(こころ)で通じ合うと、時間という概念がなくなる。そして、心臓(こころ)を通わせるという行為は、想像を絶するほど"心地よく"また"幸福"であるという。


現代に生きる"肉機械"たる我々は、兄弟たちの心臓(こころ)の発露をとても羨ましく思う。同時に、我々が如何に心臓(こころ)忘れ、表層的なものによって支配されているかを思い知らされる。"心地よい"だとか"幸福だ"と思う感覚は頭で感じられるものではない。脳内で言語化できるものではない。それは心臓(こころ)でしか感じることはできない。


想像してほしい。


たまの有給で、ちょっと高い温泉宿を訪れる。広々とした和室に案内される。荷物を隅の方に置いて、大きな窓を開ける。海の上に燃えるような夕日が浮かんでいる。思いっきり背伸びをする。冷たい海風が、鼻から、口から、スーッと身体中に澄み渡る。今日残っていることは、温泉に入って、美味しいご飯を食べるだけ。その瞬間、頭ではなく、心臓(こころ)で感じるはずだ、幸福だと。


皮肉だが、小説などという言語にまみれたものを読んでいる読者は浅はかな"肉機械"の極みである。そして、金髪碧眼のフロム様に罵倒されてしかるべき存在である。


"肉機械ども"は言語にまみれ、権力に翻弄され、他人を蹴落とし、殺し合い、自らが作り出した機械で支配し、支配され、生の不調和を生きてきた。人間の歴史とは心臓(こころ)を忘れた者たちの不幸の歴史である。


『氷』の最後、兄弟団が開発した心臓(こころ)が目覚めた状態を疑似体験できる健康増進システム"アイス"のモニター体験談が紹介される。その中で三十三歳の詩人はこのように心臓(こころ)が目覚めた状態を描写する。

これはあらゆる意味において神々しい!これは私たちを死に、異世界への移行に備えさせてくれる。私は長らくこんな恍惚を感じたことはなかった、長らくこれほど我を忘れたことはなかった、このみすぼらしい灰色の現実から完全に切り離されたことはなかった。私たちの地上の生-これは死に対する、変容に対する、偉大なる旅路に対する備えなのだ。いと高き力が棺の中にいる私たちを目覚めさせ、よみがえらせてくれるまで、私たちは人形のように、自分たちの地上の覆いの中で微睡むことを余儀なくされている。<死を愛せぬ者は生をも愛せぬ>と老子は言った。この奇跡の装置は私たちに死の愛し方を教えてくれる。


"肉機械"である我々はどうすれば、この詩人や兄弟たちのように"心地よく"、"幸せ"になれるのだろうか。


ソローキンは言うだろう。「心臓(こころ)で語れ」と。